言葉と私

プロローグ

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ことばとわたし

今回のプレゼンでお伝えしたいこと、それは、「言葉が「私」を作っている」ということです。

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小学校6年生の時のことです。ある夜、突然ある恐怖に襲われました。ある恐怖とは「死」です

それまでも漠然と死を恐れていましたが、その晩のそれは、とてもリアルなものでした。

自分が存在しない世界が、自分の死んだ後も永遠に続くという恐怖。
この恐怖は言葉では伝えにくいのですが、同じように感じた人には理解してもらえると思います。

今にして思うと、これが「自我」の目覚めなのでしょう
その夜、世界の中の自分という客観的な視点に、突然立ったわけです。

それ以来、私の最大の関心事は「私」です。
私はどのように生まれ、死んだ後はどうなっていくのか?
この問いについての私なりの答えを、今からお話ししたいと思います。

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生まれたての赤ちゃんには「私」という意識はありません。
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何時ごろ、「私」という意識を持ち始めるのでしょう。

それは、他者との出会いからです。

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赤ちゃんは、生後まもなく、常に自分の身の回りの世話をする「他者(母親)」を特別なものとして認識し始めます。

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赤ちゃんが最初に話す言葉「ママ」は、周囲の大人の解釈で母親と結びつけられます。始め、ママは、自分の欲求の全てを満たしてくれるので、ママと自分はまだ同じ存在です。

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ところが、一歳も過ぎると、自分の欲求をママは拒絶するようになります。
すると、「これはどうも変だ。自分とママは違うのでは無いか?」と思い始めます。

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これが「私」という意識の始まりです。

そして、周囲の大人からの「○○ちゃん」という絶え間ない呼びかけが、この「私」という意識と結びつきます。

つまり、他者(ママ)という存在の認識と、その他者との別離から「私」という意識が生まれます。そして、「○○ちゃん」という言葉によって、「私」という意識の輪郭が描かれます。
「私」の誕生です。

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こうして生まれた「私」はみんな同じ「私」です。
Aさんの「私」もBさんの「私」も、同じ「私」ということです。

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ところが、大人になった私たちにとっては「私」は一人ひとり違います。

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Aさんの私とBさんの私は違う私です。

なぜでしょう?

 

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それは、「私」が二重構造だからです。
「私」の上に「我」が乗っかってくるからです。

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「私」とは万人共通の原初的な存在。
そして「我」は、環境によって後から付け足された存在です。

この「我」は果たして存在するのか?という疑問についてお話しします。

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なぜ、そんな疑問を持つかというと、般若心経には「我」は幻想であると書かれているからです。これは、お釈迦様の言葉です。

でも本当でしょうか?

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1980年代にベンジャミンリベットと言う科学者が、人間の自由意志について実験をしました。
詳細は、ネットで調べれば分かるので、ここでは結論だけ言います。

http://matome.naver.jp/odai/2136826856775566301

それは、「しよう」という意思の3分の1秒前に、行動を促す脳細胞が既に動いているということです。

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この実験は、私たちには主体がないということを示しています。
つまり、ロボットと同じで、私たちには「我」がありません。

私たちは「我」を「私」と同じものと考えています。
なので、「私」は幻想である、ということになります。

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2000年以上前のお釈迦様の言葉は正しかった、ということです。

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私はロボット!

「私とは?」という問いの答えとしては、なんとも味気ないものです。

皆さんは、この答えに多分納得しないでしょう。実は、私も納得していません。

私は幻想、と言われても、それでも、私という意識はある。だから私はいる。こう主張したいですよね。

実は、デカルトという哲学者が、こう言い切っています。

「我思う、故に我あり」

この世の全てが幻だとしても、「考えている」という事実は残る。だから「考えている」私の存在は疑いようがない

つまり、私がいるのです。

安心しますよね。

ところが、この言葉は、その後の哲学者たちから批判されました。論理的に矛盾しているというのです。

どういうことか、見ていきましょう。

「我思う、故に我あり」というのは「AはBであるで、ゆえにAである」と言っているのと同じだというのです。

「我思う」とは「存在する我が思う」と言っているのと同じことです。存在しない我は思うことができませんから。つまり、「我」は存在するという結論を、その前提で提示してしまっています。したがって、デカルトの言葉は次のようにいい直されるべきです。

「思う、故に我あり」

さて、今度は、「思う」について考えてみます。

私たちはただ単に「思う」という事はできません。「思う」には対象が必要です。

思うときは、常に、何かについて思っています。したがって、「思うゆえに我あり」はさらに言い直すべきです。

「あるモノについて思う時、我はある」

つまり、あるモノと関係する時、「我」は存在しはじめる。
「我」は単独には、存在しない、ということです。

これで、やっと結論が出ました。

「我」とは、あるモノ(他者)と「関係」するとき、その都度立ち現れる現象(こと)。

より端的に言うと、

「我 とは、他者との関係である」

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ところで、Aさんに会っているときの「我」と、Bさんに会っているときの「我」は、同じ「我」でしょうか?

 
同じという保証は、ありません。
Aさんにあった後、自分が何者であるかの記憶を失い、その後でBさんにあったとしたらどうでしょう?

いろいろな人との出会いで、そのときどきの「我」が生まれています。

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その「我」を、一つの同じ「我」としてまとめているのが「私」という言葉です。

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言葉が「私」を作っているわけです。

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では、最後に、ぼくの大好きなショート・フィルムをご覧ください。
タイトルは「嵐の夜に」
愛犬二人きりで、あらしの夜に眠れない少女。永遠とは?死後の世界とは?私はだれ?と頭の中を駆け巡る空想を美しく描く、哲学的な作品です。今回のプレゼンの締めくくりにふさわしいフィルムだと思います。