ことば、世界、わたし

これから哲学ナイトで3回のトークをします。タイトルは、それぞれ「言葉と世界」「世界と私」「私と言葉」です。この3回のトークを通して、皆さんに伝えたいこと、それは、「私とは何者か?」ということです。いわば、3回のプレゼンを通して皆さんとともに「自分探しの旅」をするわけです。

それでは、今日のトークを始めます。

#言葉と世界~ことばが世界を作っている

今回のテーマは「ことばと世界~ことばが世界を作っている」

プロローグ

私はキリスト教の高校に通っていました

放課後に聖書の時間がありました。この授業は自由選択です。宗教に関心があったので進んでこの授業を受けていました聖書の学習で、特に印象的な言葉がありました。それは「はじめに言葉ありき」と言う文章でした。

ヨハネ福音書の書き出しです。

世界の始まりとして、「言葉」というのは、とても不思議に思いました。ギリシャ神話のように「はじめは混沌であった」ならば、イメージできます。

それが「はじめに言葉」では、どう考えていいのかわからない。

この疑問は解けないまま、心の端に残りましたが、ここ数年哲学に親しんだおかげで、やっと、自分なりの答えを見つけることができました。
それを、今からお話しします。

Ⅰ ことばと世界~ことばが世界を作っている

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世界は言葉でできているというお話をします。

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目を閉じて私が今から言うことを頭の中で想像してみてください。

真夏の昼下がり、皆さんは砂浜に寝ています。照りつける太陽、青い空に白い雲、打ち寄せる波と戯れる子供たちのはしゃぎ声・・・

どうでしょう?

夏の海水浴場がイメージできたと思います。

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言葉が「世界」を作りました。

ここで、皆さんはきっとこんな疑問を持たれると思います。
その「世界」は、私の頭の中の世界でリアルな世界では無い。

そうです

頭の中の「世界」は、いわゆるバーチャルなつまり仮想の世界で、現実のこの世界とは違います。
ただ、少なくとも仮想とはいえ、言葉によって「世界」は作られました。

ここで、考えて欲しいのですが、もし、私の話を人間以外の動物、例えばトカゲに話をしたとしたらどうでしょう?

トカゲの頭の中に、夏の海水浴場のイメージは浮かぶでしょうか?

浮かぶはずがありません。
トカゲには言葉が理解できません。

しかし、トカゲも日光浴をします

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この写真を見てください

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トカゲのひなたぼっこです。
さて、このトカゲは自分の体を温めてくれる太陽と自分がしがみついてい岩を認識しているでしょうか?

トカゲの気持ちなどわかるわけはありませんが、推測はできます。おそらく「何か」光ってる物は暑い、抱きついている「何か」は暖かくていい気持ちだ、という感じでしょう。
まぁ、気持ちという言葉はトカゲにはないので、単純に快感を味わっているだけでしょう。

ところが、私たち人間は「太陽は太陽」として「岩は岩」として認識しています。

認識するために、人間は言葉を使います。
このことについては、後ほど説明します。
とりあえずは、世界を作るには、言葉が必要である、と理解しておいて下さい。

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「人間だけが、あるものあるものとして経験できる」のです。

「人間はあるものを、あるものとして経験する」ので人間の世界は、トカゲの世界とは全然違う、ということになります。

トカゲの世界!

ここで当然、皆さんには次のような疑問が浮かぶと思います。。

言葉が世界を作る
トカゲには言葉がない
だから、トカゲに世界はない?

実は、あります。
説明します。

「言葉が世界を作る」と最初に言いましたが、
正しい言い方ではありません
正しくは「言葉は<人間の>世界を作る」です。

 

どうして、<人間の>を省略したか?

混乱を避ける為です。

いきなり、「 言葉は人間の世界を作る」と話したのでは、なぜ、わざわざ「人間の」というのだろう?という疑問で皆さんを混乱させると思ったからです。

実際には、人間には人間の、トカゲにはトカゲの世界があります。

では次に、トカゲにはトカゲの世界がある、ということをお話しします。

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皆さんは、「世界」というと、すべての生物が投げ込まれている1つの世界をイメージしていると思います。

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ところが、そうではありません。

 

「すべての生物は、別々の時間と空間を生きている」
これは、ヤーコプ・ユスキュルという生物学者の言葉です。

全ての生物はその生物なりの環境を独自に作って生きている。その独自の環境をその生物の「環世界」とユスキュルは呼びました。

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「環世界」の説明として、まず、「コウモリ」を例にとります。

コウモリには視力がありません。そして、よく知られていますが、彼らは超音波を使って飛びます。彼らの空間認識と、我々のそれとでは大きく異なっているはずです。つまり、全く違う空間世界に生きていると言えます。

次に、時間の例について見てみます。

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時間とは何か?これは、哲学者の頭を悩ませる問題です。いろいろな哲学者がいろいろな定義をしています。

例えば、中世のアウグスチヌスは時間についてこう言います。

「一体時間とは何でしょうか?誰も私に尋ねないときは、私は知っています。ところが、尋ねられて説明しようと思うと、知らないのです。」

「言葉では説明できません」と言っているわけですが、これでは身も蓋もありません。

もう少し、身のある答えを出している哲学者がいます。
それはベルグソンです。

彼はこう言います。
「時間には2種類ある。
物理的時間と心理的時間です。
物理的時間は時計で測定できますが、心理的時間は測定できません。それは、それぞれの人間が感じる時間です。

物理的時間は、人によって変化しません。Aさんの一時間も、Bさんの一時間も同じ長さです。その意味で「絶対的時間」といえます。

これに対して、心理的時間は人それぞれです。楽しい時を過ごしている人の一時間と、退屈をもてあましている人の一時間は長さが違います。この意味で、心理的時間は相対的です。

  

こうしたことから、後に、この2種類の時間は、物理的時間は「ニュートン時間」、心理的時間は「アインシュタイン時間」と呼ばれるようになります。

ここでちょっと横道にそれますが、なぜそう呼ばれるのか、その理由を考えてみましょう。

それは、ニュートン時間は絶対時間、アインシュタイン時間は相対時間だからです。

まず、ニュートン

ニュートンは、時間は過去・現在・未来、そして宇宙のどの場所でも、常に等しく進むと考えました。ニュートン時間は、いついかなる場所でも等しく進むみます。そのため、「絶対時間」なのです。

次に、アインシュタイン

これに対し、アインシュタインは「絶対時間」を否定します。動いているもの、例えば、電車や飛行機の中では、時間は遅れる、と主張します。
私たちの常識とはかけ離れているので、信じがたい話ですが、次のビデオを見ればアインシュタインの考えが理解出来ると思います。

アインシュタイン時間は、場所によって進み方が違うので「相対時間」なのです。

さて、話をユスキュルに戻しましょう

ユスキュルは時間について、単純にこう言い切ります。

「時間は、瞬間の連続である。そして、瞬間とは18分の1秒である。」

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なぜ、18分の1秒なのでしょう?
それは、18分の1秒以内で起こる刺激を、人間は感覚できないからです。

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映画というのは、パラパラ漫画と同じで、静止画のコマの連続です。
コマとコマの間に暗転がありますが、これは18分の1秒より短い間隔です。
そのため、私たちの目には、スクリーン上の映像がスムーズに動いているように見えます。

この18分の1秒は、視覚だけでなく全ての感覚に当てはまるそうです。
例えば触覚

棒で皮膚をトントンと叩く場合、1秒に1 8回以上続くと、ずっと棒を押し当てられているように感じます。
これが、人間にとっての「時間」です。

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それでは、「かたつむり」にとって時間はどうでしょう?

それは、3分の1秒です。
カタツムリの足元に小さな棒を差し出すと、カタツムリはその上にはい上がろうとします。
その棒を 1秒間に1回から3回、回転させると、かたつむりには、棒の回転が分かるので這い上がって来ません。
ところが、4回以上回転させると、はい上がろうとします。
回転が認識できず、棒は止まっていると判断するからです。

もっとも、実際は棒は回転しているので、這い上がったカタツムリは目を回すにちがいありません。

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というわけで、すべての生物はそれぞれの「世界」に生きている、ということになります。

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それでは、人間にとっての「世界」はどのようなものでしょう?

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それは、先程言ったように、太陽を太陽として、岩を岩として、というように、「あるもの」を「あるもの」として認識する世界です。

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なぜ、「あるもの」を「あるもの」として認識できるのでしょう?
それは、「あるもの」をそれ以外のものと区別するからです。

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なぜ、区別するのでしょう?
それは、「あるもの」が自分にとって特別なものだからです。
特別なものとは、それを利用できるということです。

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このことについてより詳しく見ていきましょう。
トカゲにとっての太陽や岩は、それぞれ単に体を温めてくれるもの、体を支えてくれるものです。それ以上のものではありません。

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ところが、人間にとっての太陽は、農耕を支える存在で、古くから神として祀られている特別な存在です。

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そして、岩は建築材料や道具の素材としていろいろ活用されてきました。

つまり、人間にとって有用な、他のものとは区別されるべき特別な存在なのです。
そのために、「太陽」や「岩」という名前がつけられました。

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「特別なもの」を他のものと区別するために、人間は、「言葉」を発明しました。

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「言葉」の語源は「ことの刃」 です。
つまり、「言葉」は物事を切り分けるナイフです。

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「言葉」は物事の整理にとても優れた道具です。

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原始の時代、人間にとって外界は「カオス」でした。

人間は、「言葉」を使って、このカオスに「秩序」を与えました。

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それでは、どのように切り分けるのでしょうか?

色を例にお話しします。

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アフリカに住むヒンバ族には青と言う言葉がありません。
そこで、人類学者たちは彼らの色に対する認識について調査をしました

このビデオを見てください。

再生できない場合
→ http://tkj.boy.jp/TED/

この調査が明らかにすることは、「言葉」が認識を助ける、ということです。
つまり、「見えてはいても気がつかないもの」を「見えるもの」に変えると言うことです。

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次の図で、「見えてはいても気がつかないもの」を「見えるもの」に変わる瞬間を疑似体験できると思います。

一見この絵は、点がランダムに打ってある意味のないものに見えまところが、このランダムな点の中に犬が隠れているのです。

どこかわかるでしょうか?

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そうです、ディズニーの「101匹わんちゃん」に登場する犬ダルマシアンです。

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このダルマシアン犬の周りの赤い線、これが言葉です。
言葉は、他の物からある物を区別し、カオスに秩序を与えるための道具です。

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ここで、これまでの話をまとめます。

世界は、見ているもの(認識されたもの)の集まりです。
ものを見るため(認識するため)には言葉が必要です。
したがって、言葉が「人間の世界」をつくります。

私たちは、混沌に秩序を与えるものとしての言葉の役割を見てきました。世界を1軒の家として考えるならば、言葉はその家を支える柱です。

ここで、1つ疑問が浮かびます。

言葉は、道具以上のものではないか?という疑問です。

というのも、古来、日本には、言霊思想がありました。言葉には、神秘的な力が宿っていて、森羅万象は、それによって成り立っていると信じられていたのです。つまり、世界は言葉によって命を吹き込まれていると昔の日本人は考えていたわけです。

「はじめに言葉ありき」という聖書の書き出しの一文は、言葉が世界に命を吹き込む、ということを意味しているのかもしれません。

最後に、この言葉の力を描いたショートムービーがあります。タイトルはまさに「Power of words」です。

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以上で、プレゼンを終わります。

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では、最後に、今日のテーマに関連するショート・フィルムをご覧ください。

タイトルは「Power of words(ことばの力)」
とても、こころ暖まる作品です。

Ⅱ わたしと世界

今回のプレゼンでは、「世界はわたし次第で変えられる」ということをお伝えしたと思います。


私はよく夢を見ます。毎日見続けることもあります。

よく夢を全く見ないと言う人がいますが、そんなことはありません。覚えていないだけです。

睡眠には2種類あります。レム睡眠とノンレム睡眠です。レム(REM)睡眠とは、「Rapid Eye Movement」略です。夢を見ている時、瞳が急激に動くのでこの名称が与えられました。

睡眠は、はじめレム睡眠から始まり、ノンレム睡眠に移行し、そしてレム睡眠に戻って覚醒します。

記憶に残る夢とは、起きがけのレム睡眠のときに見る夢です。

私は、時々、とてもリアルな夢を見ます。基本的に夢には色と音がついていません。白黒のサイレントムービーです。
ところが、時々、カラーの夢を見ます。しかも、音がついています。

ごくまれにですが、食事をしてる夢などをみます。
この時は食べている料理の味まで分かるのです。こうなると、現実の世界とそんなに変わりません。

そこで、ふと、疑問に思ったのです。

もし、夢を見ている途中であの世に旅立ったら、つまり死んでしまったら、その夢は自分にとって現実ではないのか?

この疑問にはさらなる疑問が重なります。

それは、自分が「現実」と思っていることが、実は「夢」なのではないか?死んだ瞬間、目が覚めて「あー、長い夢だったなぁ」と思うかもしれません。そうすると、私が今現実だと思っているこの「世界」そのものが疑わしくなってきます。

これから、その疑わしき世界を我々はどう見ているかについてお話を始めます。

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私は、世界(外界)をどう見ているか?

果たして、正しく見ているか?
という問いからお話しします。

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これは認識論の問題で、古来より哲学者たちが論争を続けています。

そもそも、この問題のきっかけはプラトンのイデア論でした。

洞窟の比喩という有名な例え話でプラトンはこう言っています。

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真実の世界は洞窟の外にある。洞窟の中に住んでいる私たち人間は.その真実の世界の劣悪なコピーを見ているに過ぎない。

 

<ビデオを見てみましょう>

 

ではどうすれば真実の世界を見ることができるのか?

これが認識の問題の始まりです。

 

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世界の「見え方」は、大きく分けて2つあります。

「実在論」と「観念論」です。

見え方

 

<左が実在論、右が観念論 >

実在論とは、世界(外界)と私たちは別々に存在していて、「見る」という行為は、外界を脳に写し取ると考える立場です。

私たちは、直感的にこのように考えています。
そのためこの考え方を「素朴な実在論」 とも言います。

これに対し、観念論の立場では、「外界」はカオスであると考えます。

そのカオスを秩序のある「世界」として認識するために、私たちはフィルターを通して外界を見ている、と考えます。

私は、観念論が正しいと思っているのでこれからその理由についてお話しします。

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人間の脳にはある偏向が先天的に組み込まれています。

ライラックチェイサーという錯視を見てください。

静止した点が動き始めると色が見えてきます。

脳細胞が自ら色を作り上げているわけです。

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環境によって「見え方」に偏向が生じます。

 

これは、よく知られている矢印の錯覚です。

長さは同じだと知っていても、どうしても違うように見えてしまいます。

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なぜでしょう?

それは、私たちが立方体の建物に住んでいるからです。

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左の二つの図を見てください。
(部屋を外と内から見ている図です)

真ん中の垂直線は左右両側の垂直線と同じ長さです。
ところが、見かけ上は違う長さです。
この、見かけ上の違いを脳は補正するわけです。
この補正作用が錯覚の原因となります。

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イヌイットの人たちにはこの錯覚が起きません。

なぜならば、彼ら住まい、イグルーは球形だからです。

 

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「文化」によっても、世界の見え方が違ってきます。

アフリカのヒンバ族には「青」という言葉がありません。

 

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彼らが色をどう認識しているのか、このビデオを見てください。
*前回のプレゼン、「ことばと世界」で見たビデオと同じです。


再生できない場合
→ http://tkj.boy.jp/TED/

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この調査から分かる事は、以下のとおりです。

・見えていても、気づかないもの(認識できないもの)がある。

・気づくかどうか(認識できるどうか)は文化に影響される。

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以上、まとめてみると、

私たちは、
1 脳の特性
2 環境
3 文化

これらの影響を受けて世界を見ているということになります。

つまり、私たちは「観念的」に世界を見ているということです。

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次に、私たちにとって「世界」はどういう意味を持つのか?ということについてお話しします。
意味を持つとは、世界がわたしにとって好ましいかどうか、生きるに値するかどうか、ということです。

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世界は、私の「解釈」によって変わります。

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この写真は、北朝鮮のマスゲームです。

このマスゲームの写真を見て「すばらしい」と思うか、「気持ち悪い」と思うか、人それぞれではないでしょうか?

意見の違いはどこからくるのでしょうか?

その違いは、その人の育ってきた環境、教育によるものだと思います。

個性重視の教育を受けてきたのならば、マスゲームに対して否定的でしょうし、逆に、集団重視の教育を受けてきたのならば、肯定的な意見になるでしょう。

 

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最後に、世界が生きるに値するかどうかを決定づける、1番重要な要素についてお話します。

 

それは「気分」です。

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結局のところ、私の気分次第で、世界はバラ色にも灰色にもなります。

すべては、「気持ち」の問題と言うことです。

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結論は

私たちは、「価値観」と言う眼鏡をかけていて
その色は「気分」で変わる、ということです。

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では、最後に、今日のテーマに関連したショート・フィルムをご覧下さい。
タイトルは「ネイチャー・グラス」
ユーモアたっぷりの作品です。